震洋 鳥の巣平和公園について

震洋 鳥の巣平和公園の由来

この洞窟には終戦間際に作られた、鳥ノ巣基地があります。
基地の目的は、田辺湾に攻め入ってくる敵艦に対して自爆攻撃を仕掛けるボート「震洋」を配備する為です。
ここでの作戦は不履行のまま終戦を迎えましたが、国内・アジア各地では同様の作戦により2500人以上の尊い命が失われました。私たちは終戦から七十年に際して、このような悲惨な戦争が起こらないように祈念しここに平和公園を開きました。

二〇一五年三月 NPO法人 震洋鳥ノ巣基地保存会


震洋鳥ノ巣基地とは 〜文教大学名誉教授・宮本倫好氏〜

私は「戦中派の最後、戦後派の走り」と位置づけられる世代です。太平洋戦争中、この近くにあった文里造船所に勤労動員され、そこで昭和天皇の終戦放送を聞きました。復帰した田辺中学(旧制)の校庭は芋畑から元のグランドに戻り、暫くは占領軍がよく野球に興じていました。それを腹を空かせた私たちは、窓から鈴なりになって眺めたものです。
その後の日本経済の急速な発展は世界の奇跡といわれていました。やがて長い不況に苦しみ、今やっと国家として成塾期を迎えつつあります。私の世代はこの大変改期の全てを身に刻みました。現代、私たちの若い世代と比べようもない豊かさと平和を享受している若い世代を見る度に「よくぞここまで」という感を深くします。これまでに至る先人たちの尊い犠牲と、仲間や後輩たちの優れた貢献を想うと、深い感慨を覚えます。

外地で敗戦を迎えたその日、作家の司馬遼太郎は「何と愚かな国に生まれたことか」と実感したそうです。私の元の職場の先輩で、公私共教示される事が多かった方ですがこの感想に共感しました。この場所には戦争末期、軍は最後のあがきとして「田辺嵐基地」と名付けた特攻艇基地を建設中でした。「震洋」と呼ばれる特攻艇は全長五〜六メートル程度のベニヤ板製。船首に機雷を積み、紀南に上陸を図る米艦艇に自爆攻撃を仕掛けるマンガの様な構想でした。現実にフィリピンや沖縄に配備され、隊員約二千五百人が戦死したといわれます。もし終戦が遅れ、米軍の本土上陸作戦が決行されていたら、既に実戦訓練を受けていた若者の血が、紀南の海も赤く染めていたことでしょう。

終戦で闇から闇に葬られるはずだったこの計画に光をあてたのは、郷土史研究家故・伊勢田進氏発行の戦時体験文集でした。同氏の知人、原健二氏(新庄町在住)がそれに目を留め、「この遺跡を保全して戦争の悲惨さ、愚かさを後世に伝えよう」と決意しました。この二人の先達の呼応に白井慶さんら有志が立ち上がりました。そして私財を投じ、時間を割いて基礎工事を終え、震洋のレプリカを展示ところまでこぎつけたのです。

勝算もないまま無謀な戦争に突入した軍部は、有為な若者を中心に多大の犠牲を出し、最後には本土決戦などという妄想を振りまきました。私たちはこの戦争がもたらした災渦をしっかり心に留め、悲劇の再来を防がなくてはならないと痛感します。そのためには、それぞれが自分の立場で「何をすべきか」を真剣に考える必要があると思うのです。それは次世代への義務だと信じます。太平洋戦争という痛恨の過ちから何を学ぶかについては、紀南版の「生きた資料」がここに復元されています。是非この機会に平和の尊さをこのささやかな施設で考えて頂くことをこころから祈っています。

戦後七十年の平成二十七年秋 文教大学名誉教授 宮本倫好(白浜町出身)












詳しくご覧になりたい方は鳥の巣平和公園内にある
資料室にある資料を閲覧ください。